「江花川沿岸土地改良区」の紹介

【令和6年7月20日】
担当者:江花川沿岸土地改良区 柏村國博(藤沼湖決壊による慰霊碑建立実行委員長)
司会者:rfcアナウンサー

司会者おはようございます。「農家の皆さんへ」の時間です。
今朝は、土地連だよりをお送りしましょう。お話は、江花川沿岸土地改良区職員の柏村國博さんです。
柏村さんは、藤沼湖決壊による慰霊碑建立実行委員長を担っている方です。
柏村さん、おはようございます。

担当者おはようございます。本日はよろしくお願いいたします。

司会者今朝のお話は、江花川沿岸土地改良区についてご紹介いたします。
はじめに、江花川沿岸土地改良区の概要について、ご説明いただけますか。

担当者はい、当土地改良区は、福島県中通り中部の須賀川市西部に位置し、標高約270メートル~340メートルの比較的平坦な地域で、長沼から岩渕までの1級河川江花川沿いに展開する水田農業地帯で、総面積がおよそ827haの地域です。
(新)藤沼ダムは常時満水位標高413.8m、貯水量1,281千m3、これを水源とし、簀ノ子川及び江花川の28箇所の頭首工から取水しています。
基幹水利施設である藤沼ダムに導水するトンネルをはじめ、藤沼ダムの第1号~第3号ゲートによる用水供給設備のほか、頭首工や幹線用水路の適正な維持管理を実施することにより、かんがい用水の安定的な供給に努めているところです。また、当土地改良区の組合員775名のうち専業農家が約6%で、全農作業委託農家が40%になっていまして、専業農家への委託率が高まっています。

司会者藤沼湖が、現在のところに造られた経緯を教えてください。

担当者それでは、歴史について少しお話しします。
安政元年(1854年)に池田利一という人が生まれ、この人が江戸時代からの水不足を無くそうと、適した場所を探し歩き、現在の場所に大きな溜池を作ろうと提案しました。しかし、なかなか実現せず時が過ぎ、昭和9年に日照りと低温被害で農作物被害が起こり、次の年も日照りが起こり、ようやく長沼・桙衝・稲田の町村長が動き、県に陳情しました。
昭和12年から17年までの6年間の計画で事業が開始されましたが、戦争が起こり、働く人や物資が不足して、13年目の昭和24年にようやく藤沼貯水池が完成しました。当時は貯水量150万tで850haに用水が供給されました。利一は昭和19年に藤沼貯水池の完成を見ないで亡くなりました。そして、昭和27年に江花川沿岸土地改良区が設立されました。

司会者東日本大震災では藤沼湖が決壊し、犠牲者も出たようですが。

担当者2011年(平成23年)3月11日、藤沼湖の本堤が決壊し、満水だった150万tの貯水が簀の子川下流の地区に濁流となって押し寄せ、犠牲者7名、行方不明者1名、流失・全壊家屋22戸、浸水家屋101戸など大きな被害が出てしまいました。犠牲者の1人は、45日後に二本松市の阿武隈川まで流され発見されました。濁流を見た人によると、河川の上を走る津波そのものだったそうです。
その年から、用水源がなくなり、営農の継続も危ぶまれる状況になりました。県、市、土地改良区、被災者の会、被災行政区等の協議が何度も行われ、被災者の了解と被災者への補償がまとまり、新藤沼ダムの復旧・再建工事が2013年(平成25年)10月に着手されました。
2017年(平成29年)1月から試験湛水を行い、同年4月から農業用水の供給を再開しました。実に7年ぶりの用水供給でした。
藤沼ダム完成後の2021年(令和3年)3月には、「藤沼湖決壊による慰霊碑建立実行委員会」が簀の子川上流の地区に犠牲者の慰霊を建立し、記録誌を発刊して後世に伝承する活動を行っています。

司会者新藤沼ダムが完成し、現在の土地改良区の運営はどのようにされているのでしょうか。

担当者2021年(令和3年)4月に造成施設が県から須賀川市へ譲与され、市の管理体制となりました。その後、市と当土地改良区の協議により、市から一部業務委託を受ける形をとり、藤沼ダム貯水・給水管理を行っています。
また、旧管理規程を改正し、2023年(令和5年)12月に、藤沼ダムかんがい用水管理規程の県の認可を受け、現在は、新藤沼ダムに合わせた、維持管理事業計画変更認可申請を提出中です。
今年(令和6年)4月には役員と総代の総選挙があり、5月3日から新役員・総代が就任され、今後4年間の土地改良区運営をすることになりました。
当土地改良区役職員一同、組合員と地域の農業発展のため、農業用水の安定供給と安全管理に努めてまいりますので、今後とも、ご協力をお願いいたします。
ありがとうございました。

司会者ありがとうございました。